今更ですが、
なぜ私が教育現場追放の標的にされたのかが判ってきた気がします。「自己決定や自己主張をできない人間育成」プランがじわじわと展開されているのだと思われます。
その行く先は戦争かはたまた・・・。
私が取り組んでいる性教育の目的が「生徒が自分の性を自認し、他の性も尊重しながら、自己の意思決定ができる。」そして
「強制や支持待ちでなく、自らの意思表示をしコミュニケーションをとることにより、性に関するよりよい人間関係を作っていく」だからです。
「思春期時の性に関する人間関係では、相手に合わせて、なんとなく受け入れてしまうことによって不幸な結果になるケースが多いのです。」
「生徒が、受け入れたくないときは、相手から嫌われないようにしつつ、しっかりと断る」方法を見つけ出す授業を展開してきました。
特にエイズ教育ではそのことが必至です。
そのような授業展開をし、「自分が不幸にならないためには、嫌なことは嫌だと主張できる人間を育成する」
教師は、なんとしてでも「自分の政治家としての信条を強制したり、自分の宗教観を押し付けたい」人たちには、
一番やっかいな人間とうつるはずです。
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熊本体罰訴訟における今回の最高裁判決のいろいろなニュース報道によると、
私の感想としては、私の裁判で被告都教委側が証拠として出してきた東久留米市教育委員会の平成8年の資料のような、
現場「体罰容認」につながってしまう良くない判決だと思います。
「立腹して行為を行い、やや穏当を欠いた」時点で、すでにこれは「教育的指導」にあたらず、むしろ「暴行」です。
ところが、この教師は「社会から排除させられる可能性のある」行為そのものをその児童に加えています。これは「指導」にはあたりません。
「子どもは大人に対して暴力を振るってはいけないが、大人は子どもに対して暴力を振るってもいい」という結果をもたらしています。
この児童の立場からすれば「好きな先生からかまってもらいたくて、ちょっかいを出したら、いきなり暴行を加えられた」となり、それはパニック障害も起こすでしょう。 この教師が、この後じっくりと時間をかけて、この児童との関係を回復しつつ、指導してたかどうか・・・・・。どのニュースにも書かれていないので判りません。 思春期における肛門期にあたる中学生たちは、私に対していろいろなアプローチをしてきます。中にはニコニコしながら私の尻を蹴ってくるものもいます。
かまってあげると、うれしそうにしています。家庭では家族に対して、このような行為をしていないそうです。
でも、尻はちょっと痛いです。
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